メノンというギリシャ語

メノンというギリシャ語
思いがけずポエトリーリーディングの界隈へと引っ張り出された2019年に、10年分ものエネルギーを使い果たしたのかもしれません。あの冬のある夜、稽古場へと向かうバスのなかで、いつにも増して暗い窖のなかへずり落ちてゆくような感覚に囚われていたことを、よく憶えています。その後どんなにもがいてみても、その感覚を振り払うことはできませんでした。
ヘルダーリンの詩「メノン ディオティーマを悼む」を、昨夜突然思い出しました。川村二郎訳『ヘルダーリン詩集』で読み直しましたが、メノンとはギリシャ語で「とどまり続ける者」を意味すると書かれた解題を読んだとき、自分の求めて得られなかったものはこれかと、一切に決着がついたように思いました。
自覚的に詩のことに首を突っ込んできた12年ばかりでなく、私のこれまでのすべては、予め奪われたメノンを求める営みであったかと得心しました。我ながら異常と思える故郷への執着も、実は故郷という形で現れたメノンの希求であったのです。留まることや留まりの場所を失い、そこからますます遠ざかっているという実感こそ、あの冬の夜にバスのなかで感じた暗い思いでした。
留まりといい落ち着きといい安らぎといい、現代社会においてはほとんど許されていません。産業社会を駆動させている資本主義が、右肩上がりの成長を前提とする仕組みだからでしょう。だがそれゆえにこそ詩的なものに心を寄せる人々は、その成長神話に抗してメノンをこそ求め護るべきではないでしょうか?しかるに詩人たちのあいだでも、大規模化と上昇への圧力が支配しているのはどうしたわけでしょう?資本主義と似たり寄ったりの妄念に毒されたポエトリーのシーンを、私は心から苦々しく思います。
メノンを見失わせ、メノンから遠ざける営みや人間関係から離れるときのようです。何かを書いたり朗読したりすることでメノンを失うなら、そんなことはもうしないほうがよい。長きにわたって求め続けたものが、ただギリシャ語の一単語であったというのは驚きですが、何はともあれその一単語を見出しました。これからは静かにメノンの明るみのみを注視し、やがてそのなかに住まうことをのみ念じてゆきたいと思います。

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